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YOSHIDAで体験する、高級時計への旅 ~第47回~

幕末の時代から日本と絆をはぐくんできた
スイス時計の名門ジラール・ペルゴの物語

2019.8.16

文:名畑政治 / Text:Masaharu Nabata
編集:戸叶庸之 / Edit:Tsuneyuki Tokano

 世界中から選りすぐった高級時計を取り扱うYOSHIDA(ヨシダ)において、GIRARD-PERREGAUX(ジラール・ペルゴ)は異彩を放つ存在だ。1791年から連綿と現代に続くジラール・ペルゴの高品質な時計作りの足跡を紹介しよう。

ジュネーブから世界へと展開した
ジャン=フランソワ・ボットの時計作り

 スイス時計の名門ジラール・ペルゴ。その歴史はジュネーブで活躍した時計師・宝石職人のジャン=フランソワ・ボットの時計作りにはじまる。

 ジラール・ペルゴが創業年と位置づける1791年は、卓越した時計師ボットが始めて時計を作った年。その後、ボットは自らヨーロッパ各地に赴いて販路を開拓し、時計の一環製造を行うファブリケ(FABRIQUE)、つまりマニュファクチュール(自社一貫生産工場)を設立した。この工房には180人が働き、在宅で作業する120人の職人を抱えたという。その結果、ボットはパリやフィレンツェに店を展開し、各国の上級階級から支持を得た。


  • ジャン=フランソワ・ボット(1772~1837)は優れた時計師であると同時に、ギョーシェ職人および宝石職人でもあった。

  • この美しい装飾が施された懐中時計はボットの工房で製作されパリで販売されたもの。

 一方、ジラール・ペルゴのもうひとつのルーツであるジラール社は、1852年にコンスタン・ジラールにより設立。彼は1854年にマリー・ペルゴと結婚し、“時計の帝都”と呼ばれるジュラ地方ラ・ショー・ド・フォンに2人の姓を組み合わせ「ジラール・ペルゴ」を1856年に設立した。

 やがて1906年、ジラール・ペルゴがジャン=フランソワ・ボットの工房を引き継ぐことでふたつの流れが一体となり、現代のジラール・ペルゴの基盤が完成したのである。


1889年の第4回パリ万博でジラール・ペルゴが出品したスリー・ゴールド ブリッジ付トゥールビヨン「ラ・エスメラルダ」が金賞を獲得。3つのブリッジでトゥールビヨンや輪列を保持する独特の機構は現代にも継承されている。

 この間、ジラール・ペルゴは時計の歴史に残る数々の偉業を達成している。

 1860年代頃から平行する3つのブリッジでトゥールビヨンや香箱、輪列を保持する機構を開発。これを採用した懐中時計は1867年の第2回パリ万博で賞を受け、1889年の第4回パリ万博では同機構のスリー・ゴールド ブリッジ付トゥールビヨン「ラ・エスメラルダ」が金賞を獲得した。このスリー・ゴールド ブリッジのデザインは今も継承され、腕時計として製造が続けられているのは驚くべき事実である。

 また、1880年ごろにはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世からの注文でドイツ海軍に腕時計を開発・納入。これが実用的な意味を持つ史上初の腕時計といわれている。

ジラール・ペルゴの歴史を育んだ
“時計の帝都”ラ・ショー・ド・フォン

 ここで少し、1856年からジラール・ペルゴが本社を置くラ・ショー・ド・フォンについて話をしたい。

 “時計の帝都”と呼ばれるこの街は、スイスのジュラ地方にあり、すぐそばにはフランス国境がある。16世紀、この国境をまたぐ地域に宗教改革でフランス中心部から逃れてきた先進的な技術を持つユグノーたちが定住して時計や宝飾の技術を伝え、やがてこれが標高が高く冬は雪に閉ざされるジュラ地方の気候風土や辛抱強い気風と融合し、農閑期の副業として時計作りが定着。それが地場産業へ発展していった。

 ところが1794年、ラ・ショー・ド・フォンは大火にみまわれ壊滅的な被害を受けるが、新たな都市計画により時計製造に適した先進的な街作りが行われた。まず街の中心部を東から西に走るまっすぐな大通りが作られ、そこに碁盤の目状に道を作ることで整然とした街区を形成。さらに建物の高さを制限し、通りから充分に離して南側に庭を設けて太陽光を遮ることなく室内に導いた。これにより人工照明が整っていない18~19世紀でも充分な光を確保し、明るい室内で細かな作業がしやすくしたのだ。

 この時計作りに特化した街作りを早くから実現し、それが21世紀の現代にも保存されていることが高く評価され、2009年、ラ・ショー・ド・フォンは隣町のル・ロックルと共にユネスコの世界遺産に登録された。

 このラ・ショー・ド・フォンのジラルデ広場一番地に古くから本社を構えるのがジラール・ペルゴ。現在ではそのすぐそばにある20世紀初頭に時計工場として建てられた歴史的建造物にも製造部門を設け、一体となって自社で時計製造を行うマニュファクチュールとして活動している。


  • 時計師コンスタン・ジラール(1825~1903)が生まれ育ったのは、スイス・ジュラ地方の標高1000mに位置するラ・ショー・ド・フォン。

  • ラ・ショー・ド・フォンは1794年の大火事で被害を受けたが、時計作りに特化した都市計画により“時計の帝都”と呼ばれるほどの繁栄を謳歌した。

日本でジラール・ペルゴの歴史が始まったのは
横浜の地であった

 こうしてラ・ショー・ド・フォンの発展に貢献したジラール・ペルゴは19世紀の後半から積極的に海外市場の開拓を行う。そのひとつの事例が日本への進出。コンスタン・ジラールの義理の弟、つまりマリー・ペルゴの弟であるフランソワ・ペルゴは、1859年にシンガポールに渡って1年以上過ごした後、1860年、まだスイスと国交がなかった日本にフランス人と名乗りジラール・ペルゴの懐中時計12個を携えて上陸した。

 当時、スイス時計の市場として未開拓だった幕末の日本を訪れたフランソワは、そこに大きな可能性を感じ取ったに違いない。1864年、横浜の外国人居留地(現在の横浜中華街)に商館を設立し、ジラール・ペルゴをはじめとするスイス時計や清涼飲料水の販売を行った。つまり日本でジラール・ペルゴの歴史が始まったのは横浜の地であった。

 そして、同年2月に日本とスイスの修好通商条約が締結され正式な国交が樹立。1873年には日本でも太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されてスイス時計の需要が拡大し事業は軌道に乗るが、1877年に商館が火事となり、心労がたたってフランソワは同年12月に死去。

 しかし、日本に始めて正式にスイス時計を輸入したフランソワ・ペルゴの功績は決して消え去ることはなく、今でも12月18日の命日には横浜外人墓地で追悼セレモニーが催されている。


コンスタン・ジラールの義理の弟であり、時計師でもあったフランソワ・ペルゴ(1834~1877)は販路拡大のためアメリカやシンガポールに赴き、1860年に来日して商館を設立。横浜でジラール・ペルゴをはじめとするスイス時計の販売を行った。

アメリカ史上での活躍と
高精度ムーブメント、そしてクオーツ開発

 世界初の実用的腕時計を実現し、20世紀に入ってからはラ・ショー・ド・フォンを起点として世界へと販路を広げたジラール・ペルゴだが、第二次世界大戦後にも大きなブームを巻き起こす。それが1957年に開発された超薄型高性能自動巻きシステム「ジャイロマティック」である。

 この機構を搭載したモデルは当時、戦後の好景気に沸くアメリカに輸出され、好調なセールスを記録。当時のアメリカでは自動巻きに加え、日付表示や防水機能、耐振装置を備えた高機能なスイス製腕時計の人気が爆発し、ジラール・ペルゴも確かな地位を確立した。

 さらにジラール・ペルゴは10振動/秒(36,000振動/時)の自動巻きハイビートムーブメント「ジャイロマティック HF」(HFとは高振動を意味するハイ・フリークエンシーの略)を 1965年に発表。高精度時計の世界でその名を轟かせた。

 この高精度探求の分野において、ジラール・ペルゴはスイスでも抜きんでた存在だ。1960年代から研究を開始し、1971年には自社開発のクオーツ腕時計を発表。この時、ジラール・ペルゴが採用した水晶振動子の振動数は32,768ヘルツだったが、これがその後の基準となり、現在もこれが各社に採用され続けていることは案外知られていない。


  • 第二次大戦後、ジラール・ペルゴの自動巻き腕時計「ジャイロマティック」がアメリカで大ヒット。

  • 1971年には、現在ではクオーツ振動子のスタンダードとなった32,768ヘルツの自社開発によるクオーツ腕時計を発表した。

イタリアの国民的ヒーローが牽引した
ジラール・ペルゴと機械式時計の復活

 高精度な自動巻き時計やクオーツ時計を開発してマニュファクチュールとしての地位を確立したジラール・ペルゴは1987年、イタリアのトラデマ社に販売を依託する。このトラデマ社の代表が他ならぬルイジ・マカルーソ氏であり、彼は1980年代から90年代にかけてイタリアにおけるクロノグラフ・ブームを仕掛けた張本人であった。

 さらにマカルーソ氏は大学で建築を専攻した建築家であると同時に、1972年にフィアット124スポーツスパイダーを駆ってヨーロッパラリーチャンピオンの称号を獲得したラリー・レーサーであり国民的ヒーローであった。


ルイジ・マカルーソ(1948~2010)。自動車産業で知られるイタリア・トリノに生まれる。1982年、スイス時計を扱うトラデマ社設立。1987年にジラール・ペルゴ代理店となり、1992年に社長に就任。建築家としてのセンスを生かして製品開発にも携わる。

 やがてマカルーソ氏は1992年、ジラール・ペルゴの社長に就任し、新製品開発にも乗り出す。その結果、誕生したスポーツ・クロノグラフ「GP7000」が大ヒット。トノー型ブームを牽引した「リシュビル」もヒットしジラール・ペルゴの名声をさらに轟かせた。

 また、1994年のバーゼルフェアでは自社開発の自動巻きムーブメント「GP3000」および「GP3100」を発表。これが自社製ムーブメントを軸とする「マニュファクチュール・ブーム」の先駆けとなった。

 残念ながらマカルーソ氏は2010年に死去するが、その遺志は継承され、2013年にジラール・ペルゴは髪の毛の約6分の1も細いシリコン製ブレードの反発力で安定した作動を繰り返す新型脱進機を搭載する「コンスタント・エスケープメント L.M.」の製造を開始。このシステムは時計師を500年間も悩ませ続けてきた主ゼンマイのトルク低下による精度不安定を取り除くものとして高い評価を獲得し、2013年のジュネーブ時計グランプリで「金の針」賞を受賞している。

1975年に生まれた高貴なる血統
スポーツエレガンス・コレクション「ロレアート」

 各時代において最先端の技術を駆使して優れた製品を作り続けるジラール・ペルゴ。今もその快進撃は止まらない。2017年には70年代に発表されて高い評価を得たスポーツエレガンス・コレクション「ロレアート」を、豊富なサイズ・バリエーションを展開してリニューアル。自社製造ムーブメントに由来する高い精度と信頼性、スポーティさと流麗なフォルムを併せ持つ「ロレアート」は時計愛好家の間でも大きな話題となっている。その中から注目のモデルを紹介しよう。


復刻版ブームの先駆けとなった「ヴィンテージ1945」

 ジラール・ペルゴが自社製自動巻きムーブメントを発表した1994年、同社のミュージアムが保管するヴィンテージ・モデルをモチーフに生み出された「ヴィンテージ・コレクション」がスタートした。これは後のスイス各社による復刻版ブームの先駆けとなった。

 その翌年、ジラール・ペルゴは再び自社ミュージアムが保管する1945年製造のレクタンギュラー・モデルを「ヴィンテージ1945」として発表。このモデルが高い評価を獲得して定番化し、現代でも人気コレクションとして生産が続けられ、魅力的な新作が次々に誕生しているのだ。


ジラール・ペルゴが誇る現代のマスターピース6選

【連載】「YOSHIDAで体験する、高級時計への旅」とは?

正規時計代理店YOSHIDA(ヨシダ)と、時計専門サイトGressive(グレッシブ)が、4名の執筆陣とともに送る連載企画。「なぜ、人は腕時計に惹かれるのか?」という普遍的なテーマのもと、名だたる一流ブランドの魅力に触れ、奥深い高級時計の世界へと誘う。

INFORMATION

YOSHIDA 東京本店

東京都渋谷区幡ヶ谷2-13-5
営業時間:10:00~20:00 年中無休(1月1日から1月3日までを除く)



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